やさしい貧困ライン入門

所得貧困ラインのその先へ:多次元貧困指数(MPI)で捉える貧困の多面性

Tags: 多次元貧困, MPI, 所得貧困ライン, 貧困問題, 国際開発, 社会保障

はじめに:所得貧困ラインの重要性とその限界

貧困を理解し、その削減に取り組む上で、所得に基づいた貧困ラインは極めて重要な指標です。これは、人々が基本的な生活を送るために必要な財やサービスを購入する能力があるかどうかを示す基準となります。しかし、所得だけが人々の生活の質を決定する唯一の要因ではないことを私たちは認識しています。教育を受けられないこと、適切な医療にアクセスできないこと、安全な水や衛生設備が利用できないことなど、所得以外の要素もまた、人々を貧困状態に置く深刻な原因となり得ます。

この記事では、所得貧困ラインの重要性を認めつつ、その限界を補完する概念として登場した「多次元貧困指数(Multidimensional Poverty Index:MPI)」に焦点を当てます。MPIがどのように貧困の多面性を捉え、より包括的な貧困理解と効果的な政策策定に貢献しているのかを解説いたします。

所得貧困ラインの限界:見過ごされる貧困の側面

所得貧困ラインは、主に金銭的な側面から貧困を定義します。例えば、世界銀行が用いる国際貧困ラインは、1日あたりの所得が特定の基準(例:2.15米ドル未満)を下回る人々を絶対的貧困と定義します。また、日本などで用いられる相対的貧困ラインは、所得の中央値の半分を下回る人々を貧困と見なします。これらの指標は、所得分配の状況や購買力の水準を示す上で不可欠です。

しかし、所得のみに注目することにはいくつかの限界があります。

  1. 非金銭的剥奪の見落とし: 所得が高くても、良質な教育や医療サービスが利用できなかったり、安全な住居に住めなかったりする場合があります。これらの非金銭的な剥奪は、人々の幸福度や将来の機会に大きく影響しますが、所得貧困ラインでは直接的に捉えられません。
  2. 短期的な変動の影響: 所得は一時的な要因(失業、病気など)によって変動しやすく、一時的に貧困ラインを下回ったとしても、それが長期的な貧困状態を示しているとは限りません。また、現金の所得がない場合でも、自給自足の生活や家族間の助け合いによって生活が維持されているケースもあります。
  3. 格差の視点: 同一国内であっても、地域や性別、民族によって貧困の経験は大きく異なります。所得貧困ラインは集計値として提示されることが多く、これらの内在する格差を詳細に分析することが難しい場合があります。

これらの限界を乗り越え、より包括的に貧困を理解するために、多次元的な視点が求められるようになりました。

多次元貧困指数(MPI)とは

多次元貧困指数(MPI)は、所得だけでは測れない貧困の側面を捉えるために開発された複合的な指標です。国連開発計画(UNDP)とオックスフォード貧困・人間開発イニシアティブ(OPHI)によって2010年に導入され、世界各国の人間開発報告書(Human Development Report)で発表されています。

MPIの構成要素

MPIは、貧困を以下の3つの側面と、それぞれに関連する10の指標(剥奪指標)から構成されています。

  1. 健康 (Health)
    • 栄養: 18歳未満の子どもの栄養不良、または成人(18歳以上)のBMIが基準値を下回る場合。
    • 子どもの死亡: 18歳未満の子どもが世帯で死亡した場合。
  2. 教育 (Education)
    • 就学年数: 世帯の成人(10歳以上)の平均就学年数が6年未満の場合。
    • 就学児童: 就学年齢の子ども(小学校から高校卒業年齢まで)が就学していない場合。
  3. 生活水準 (Living Standards)
    • 調理用燃料: 薪、木炭、動物の糞など、有害な調理用燃料を使用している場合。
    • 衛生施設: 改善された衛生施設(汚水処理施設など)を共有しているか、全く利用できない場合。
    • 安全な飲料水: 改善された安全な飲料水から20分以上かかる場所にあるか、全く利用できない場合。
    • 電力: 電力が利用できない場合。
    • 住居: 住居の床が土や砂、動物の糞でできているか、屋根がわらや土でできている場合。
    • 資産: 自動車、ラジオ、テレビ、電話、コンピューター、動物、自転車のいずれも所有していない場合。

MPIの計算方法

MPIは、これら10の剥奪指標のうち、特定の数の指標で「剥奪されている」と判断された場合に、「多次元貧困状態にある」と定義します。具体的には、それぞれの指標に重みが割り当てられ、その合計が全指標の3分の1(約33.3%)以上になった場合、その個人または世帯は多次元貧困と見なされます。

MPIは、以下の2つの要素から構成されます。

この2つの要素を掛け合わせることで、単に「貧困な人が何人いるか」だけでなく、「その貧困がどれほど深刻か」を複合的に示すことができるのです。

MPIの意義と政策への活用

MPIは、所得貧困ラインでは見えにくい貧困の側面を浮き彫りにし、より効果的な貧困削減政策の策定に貢献します。

  1. 政策の焦点を明確化: どの地域で、どのような剥奪(教育、健康、生活水準のどれか)が特に深刻であるかを特定できます。これにより、政府やNPOは限られた資源を最も必要とされている分野に集中させることが可能になります。
  2. 貧困削減の進捗評価: MPIは、貧困削減目標に対する進捗を多角的に評価するツールとして活用されます。例えば、持続可能な開発目標(SDGs)の目標1「あらゆる場所で、あらゆる形態の貧困を終わらせる」の達成度を測る指標の一つとしても用いられています。
  3. 脆弱層の特定: 特定の集団(例えば、農村部の女性、少数民族の子どもたちなど)が、どのような複合的な剥奪に直面しているかを詳細に分析することで、最も脆弱な人々を特定し、彼らへの支援を強化することができます。
  4. 包括的なアプローチの促進: 所得向上だけでなく、教育、医療、インフラ整備など、多岐にわたる分野での介入が貧困削減に不可欠であることを示唆します。

日本における多次元貧困の視点

日本は高所得国であり、国際的な絶対的貧困ラインを下回る人々は極めて少ないと考えられます。しかし、OECDデータによれば、日本の相対的貧困率は国際的に見て高い水準にあり、特に一人親世帯や高齢者世帯における貧困が問題視されています。

日本で直接的に国際MPIが適用されることは稀ですが、国内の貧困問題に取り組む上で、多次元的な視点を持つことは非常に重要です。

これらの問題は、所得の多寡だけでなく、教育、健康、生活環境、社会とのつながりといった多角的な剥奪の複合として現れることがあります。日本の政策においては、これらの課題に対し、生活保護制度、就学支援制度、地域包括ケアシステムなど、多岐にわたる社会保障制度で対応していますが、MPIのような包括的な視点から現状を定期的に評価し、政策の連携を強化していくことは、より効果的な貧困削減に繋がるでしょう。

まとめ:より包括的な貧困理解のために

所得貧困ラインは貧困の最も基本的な側面を示す重要な指標ですが、それだけでは貧困の複雑な実態を十分に捉えることはできません。多次元貧困指数(MPI)は、健康、教育、生活水準という多角的な視点から貧困を定義し、より包括的な理解を可能にします。

MPIの導入は、貧困削減の取り組みにおいて、政策立案者が所得向上だけでなく、人々の基本的なニーズへのアクセスや機会の平等を促進することの重要性を再認識させるものです。日本においても、国際MPIを直接適用せずとも、多次元的な視点から貧困の実態を把握し、既存の社会保障制度や政策を連携・強化していくことが、持続可能な社会の実現に向けて不可欠であると言えるでしょう。貧困問題に関わる私たちは、常に多角的な視点を持ち、複雑な現実に対応していく姿勢が求められています。